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タネノオト #052

残るらん松風の松風の噂は世世に

長唄・汐汲 1811(文化8)


「の」に苦戦。「野」と言えば長唄「月の巻」が頭から離れません。

いくら先取りOKとはいえ、やっと梅雨明けした日に「秋っぽい曲」はないよなあと、頭の中を月がぐるぐる渦巻いてしまいました。せめて立秋前だから夏の曲はないかと、譜面棚をひっくり返し、あれこれめくっていると改めて夏が冷遇されていることに気づきます。

話題になるのはいつも春秋、オールシーズンを扱う曲でも夏だけは一行の説明で終わることもあります。春は新年、お花も咲いて、秋は色々収穫あって景色もよく長い合方までつけてもらっている、冬は寒いけど行事や雪があってバエる・・・それなのに真夏を謳歌する曲があまりない!あえて言うなら「夕立」か「祭り系」でしょうか。




「汐汲」といえば謡曲「松風」です、今回は須磨の浦に伝わる松風・村雨姉妹の伝説・・・

ではなく、二人の職業であるホントの「汐汲(しおくみ)」について調べてみました。


「汐汲」→塩を作るために海水をくむこと。これを行う人。

古代の塩づくりは、海藻を浜辺に積み重ね、海水を何度もかけては乾かし、これを焼いて灰をつくります。灰は水とともに釜に入れその上澄みを煮詰めて塩を作りました。しかし海水でぬれた海藻は乾きにくく燃えづらく、骨の折れる仕事の割にあまり良い塩がとれないため平安時代には新しい「塩田」が開発されました。


「塩田」は海水の補給方法によって「揚浜式塩田」と「入浜式塩田」に分けられます。

瀬戸内海沿岸を中心に開発・普及されたのが「入浜式塩田」です。潮の干満差を利用して海水を引き入れ、天日と風で水分を蒸発させ「かん水」をとるという方法は画期的でしたが「汲む」という行為をしなくて済むことになるので在原業平の時代、架空の姉妹は「入浜式塩田」ではなく「揚浜式塩田」で潮を汲んでいたのかもしれません。「揚浜式塩田」は細かい砂に海水を丁寧にまき、頻繁にかき混ぜながら、同じく天日と風で充分に水分を蒸発させたあと砂をかき集めて海水で洗う、それを煮詰めて結晶をつくるという方法です。


姉妹の仕事は「潮を汲む」だけだったかもしれませんが、いずれにせよ大変な重労働に変わりはありません。炎天下では水分と塩分を、どうぞ熱中症に気を付けて。





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